スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Jリーグという幸福 (後編)


Jリーグのもっとも大きな価値とは何か。
それは幸福感の創出だ。

メリットやデメリットというのは何をやるにしても表裏一体となってついてくる。
そういったものをすべて包括して人を突き動かすのがこの幸福感だ。
サッカーという快楽がもたらす幸福。


天気の良い春や秋の午後、まだピッチには誰もいない試合前のスタンド。
親子連れがスタジアム売店で買った弁当をパクつき、彼氏が彼女になぜか自慢げに選手の話をしている。
おじいさんが孫にチームグッズを買ってやり、子供は喜び、庭ではなく通路を駆け回る。
おひとり様は選手名鑑やエル・ゴラッソで情報を確認し、常連のサポーターは顔見知りのサポーターと、選手やチームの噂話や情報交換に余念がない。
おじさんたちはビールを飲みながら、まるで親戚の子供のことのように選手たちを語り、おばさんたちの声は心なしか黄色味を帯びてくる。
老いと若きが先発メンバーを巡って笑顔で言い合いをしている。
スタジアム以外では会うことのない男女が新しく発売されたグッズをそれぞれ見せ合いながら品定めをしている。
子供が父親に覚えたてのチームチャントを歌って聞かせ、自分のチームの子供たちを率いてやってきた若い市井のサッカー指導者はこれから始まる両チームのシステムや戦術などを説明している。
勝てば嬉しいと言って飲み、負ければ悔しいと言って飲む。

はじめてスタジアムで試合を見た時から、自宅の部屋の中には少しずつクラブカラーのものが増えていき、そのうち専用のコーナーができて、着る物履く物すべてがその色に変わっていく。
テレビでも新聞でも、学校でも会社でも、外だろうが電車の中だろうが、クラブ名やJという言葉には敏感になって聞き逃さない。
試合の帰り道ではお店の人に結果を聞かれたと喜び、「負けました」と口にしては申し訳ない気持ちになってしまう。
電車やバスの中で見かけるクラブカラーは見逃さず、全然知らない人がカバンにクラブカラーのキーホルダーをつけているだけで「あの人はサポーターだ」と思い込み、勝手に親近感を抱いてしまう。
シーズンの日程が出るのを待ち望み、自分の行けそうなアウェイ試合の見当をつけては交通手段の割引を調べる。
補強の動向にやきもきし、いなくなる選手に胸を痛める。
監督が変わるたびに勝っては名采配と讃え、負ければブレたと憤る。
試合の流れや選手の動き、戦術を分析し、データを集め、修正点を考える。
それでも勝利がついてこなければ通りかかった神社で勝利祈願。
次第にクラブの経営状況が気になりはじめ、自分にできるのは高い指定席のシーズンチケットを買ってクラブに経済的貢献をすることだと奮発し、それだけではおさまらず個人持株会に出資したり、挙句にはクラブに募金したり。
毎日続く日常の中で、いつの間にかサポートクラブの比重がどんどんと大きくなっていく。
そしてふと、自分がサッカーを知る前よりちょっとだけ涙もろくなっているんじゃないかとぼんやり思ったりもする。
そんなことを繰り返し、何シーズンも過ごしているうちにいつの間にか20年が過ぎてしまった。
愛というのが大げさならば情というのは同じ時間と空間の共有によって育まれていく。

サポーターは一話完結のドラマにハラハラドキドキし、シーズンを通した連続ドラマに胸躍らせ、終わりのない(と思っている)長大な大河ドラマに思いを馳せる。

勝つことだけが幸福なのではない。
勝てば増えるという客は、負ければ減る。
だけど、クラブが自分のものだと思えるのならば、勝敗に一喜一憂はしても決して離れることはない。
選手たちに必死さが見えなかったり、何度も同じミスを繰り返すならばブーイングのひとつも叫びたくなるだろう。
しかし、だからといって彼らがクラブ・エンブレムの下を去ることはない。
彼らが去るとしたら、それはクラブが自分のものだと思えなくなった時だ。

サポーターはサポートクラブのことを「うち」と呼び、TwitterでもBlogでも自分がどこのクラブのサポーターであるのかを誇らしげに表明している。
なぜなのか?
なぜいい大人がそんな状態になってしまうのか?

そんな彼らに対してクラブが正面から向き合おうとしなかったり、スポンサーの方ばかり向いた施策しかしなかったならばサポーターの幸福感はそこで途切れてしまう。
そして結果的にそれはクラブをも殺してしまうことにつながっていく。

「サポーター」というのは誰かを指した言葉ではなく、クラブとの関係性を示した言葉だ。
私はそう思う。「生きがい」というものは決して金だけでは計れない。

サポーターはクラブと「思い」だけでつながっている。
クラブの人間はそのことをリアリティーを持って知っていなければならない。
選手であれ監督であれコーチであれ、あるいはフロントのスタッフであれ、クラブの人間の生活はサポーターを含む観客の「思いの付託料」としてギャランティされているのだ。
彼らはその思いを幸福感という形で返さなければならない。
いくら安いギャラではあっても、彼らがそこにいる限り。
笑顔のサポーターがスタンドに溢れればスポンサーはきっとつくし、そうすればギャランティの額も増えるだろう。

サポーターは試合だけを見ているのではない。
サポーターはサポーターであるがゆえ、クラブがどこを向いているか、何を大事に思っているか、そういうことに対してはとても敏感だ。
そのために何をしなければならないか。
貧乏クラブにはやりたくてもままならないことがたくさんある。
だけど、クラブさえ誤らなければサポーターは耳に痛い文句を言いながらも、きっとずっと支えてくれる。

そのサポーターは自分のクラブのために何をすればいいのか。
はじめてスタジアムに足を運んだ人間が見ているのはサッカーではない。
サポーターだ。自分たちを見ているのだ。
自分たちを見て、その熱を感じようとしているのだ。


日本の国内総生産(GDP)はアメリカに次いで長らく世界第2位だったのが、2010年以降、その座を中国に明け渡してしまった。
GDPの上昇は、必ずしも幸福度の上昇に比例しないというが(それを「イースタリンのパラドックス」という)、昨年末に発表された「Journal of Personality and Social Psychology」の研究チームによると「経済全体の向上や悪化の程度は人間の幸福度にそれほど影響しないが、個人にとっての安定収入の額が上がると幸福度は高まることを発見した」ということだ。
しかしこれには但し書きがある。
「その人が楽観的で、しかもあまり高望みをしすぎないという条件がある」と、研究チームのエド・ディーナー教授は語っている。
人間が幸福感を得るには条件があるのだ。
どれだけ手にしたものが大きくとも、欲望がそれ以上に大きければそこに幸福感はない。

手に入れるものを大きくするか、欲望を小さくするか。
サッカー界は前者を善としているように感じられるが(それを「夢」と置き換えたりもしているが)、これは実に難しい問題ではないか。


最後に。

Jリーグの試合を声高に「非日常」という人がいるが、あの震災の時に私は気づいてしまった。
Jリーグは私にとってすでに非日常を取り込んだ日常となっていたのだ。
きっと多くのJクラブサポーターがそう思ったのではないか?
あの再開した時の喜び。
あれは今までになかった種類の喜びだった。
そして、もう二度と味わいたくない種類の喜びでもあった。

海外の一流プレイヤーが躍動するサッカーには確かに大きな驚きもあるし、見ていても楽しい。
だけど、私にとってそれはやはり非日常の世界だ。
私にとって「行きつけ」のサッカーではない。

私はサッカーライティングの仕事をするようになって痛切に思っていることがある。
それは仕事としてサッカーにかかわることと、仕事ではなく、純粋(?)にサポーターだけをやっているのとでは、なんというか、ピッチの景色が違うのだ。
景色と言うよりはその意味合いが違うのだろう。
当然といえば当然かもしれないし、またそうでなければならないとも思う。
スタジアムの記者席で試合を見ながら、目の前の一試合の持つ重量がサポーターと私ではまるで違うことを感じ、私はサポーターに対して強烈な嫉妬心を抱く。
視野狭窄と言われようがなんだろうが、それはサポーターの醍醐味であり、特権でもある。
もちろん勝った時だけではなく、負けた時でさえ。いや、負けた時だからこそ。


サッカーはなぜ面白いのか?
あるいは、なぜサッカーが好きなのか?
そしてまた、自分の好きなクラブを応援しているのはなぜなのか?

幸福感を与えてくれるのは何もサッカーだけではない。
だが、それがサッカーであってもいい。
そしてサッカーはJリーグだけで行われているのではない。

読者は読者でそれぞれ答えを見つければいい。

                                                     (完)
Trackback
Trackback URL

Compact Menu Box

«  | HOME |  »

TOP

MENU

NEW↓

0609051303150315031303031214092609200314

COM↓

TB↓

ALL Adm

 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。